コンテンツへスキップ 投稿日:2022年7月27日/更新日:2023年5月4日

マタイ6章7-8節。同じ言葉を…

マタイ6章7-8節の解説。この聖句では、異邦人のように同じ言葉を繰り返して祈ってはならないと戒められています。主イエス様の真意は何でしょうか。ルカ18章1節-8節では、失望せずに常に祈り続けなさいとも教えられいます。相反すると思われる2つの教えを、どのように解釈したらよいのでしょうか。独りで祈る3つの理由(マタイ6章5節-6節)をまだ読んでいない方は、先に読んでください。

今日の記事では、マタイ6章7-8節とルカ18章1-8節から、祈りの基本原則3つを解説します。

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

マタイ6章7-8節 聖書協会

1.異邦人のように同じ言葉を繰り返して祈らない

マタイ6章7節-8節

古今東西、どの宗教をとっても、同じ言葉を繰り返す祈りは行われています。古代イスラエルの近隣諸国では、バアルが礼拝されていました。預言者エリアと対決していたバアルの預言者たちは、朝から真昼までバアルの名を呼び続け、「バアルよ、我々に答えてください」と祈りました(1列王記18章26節)。1世紀のギリシャの神々を礼拝していたエペソの人々は、神の名を2時間も呼び続けて祈りました(使徒行伝18章34節)。彼らは、言葉数が多ければ、神々の恵みが与えられると考えていたのです。

キリスト教の中にも、同じ言葉の祈りを繰り返すグループがあります。このグループの方が次のように言っていました。「同じ言葉を繰り返すことによって、精神が集中できて祈りに力が湧いてくる気がする」と。確かに、精神集中のためには良いかもしれません。しかし、このような「同じ言葉を繰り返す祈り」が、神様の御心に適ったことかどうかは、主イエス様の教えによって判断してみる必要があります。

真実の神様は、私たちが同じ言葉を繰り返すことによって、左右に振れるような方ではありません。祈りは、同じ言葉を繰り返す呪文ではありません。自己暗示でもありません。祈りとは、神様との関係を深めるための霊的な会話です。全能の神様は、私たち人間の言葉を理解して聞いています。だから、ハッキリした言葉で自分の信仰を神様に言い表しましょう。真の祈りは、神様をほめたたえ感謝し、自分のすべてを(神様への感謝、畏れる、罪の告白、希望、願い、喜び、悲しみや苦しみ)神様にお見せするのです。独りで祈るを参照。

2.父なる神様は、私たちが必要なものをご存じである

父なる神様は、私たちが祈る前から、私たちが必要な物をご存知です。それならば、なぜ祈る必要があるのでしょうか。祈りとは何でしょうか。祈りとは、私たちが神様とつながるために与えられている霊的会話です。また祈りとは、私たちが神様から必要なものをいただくための手段です。

私たちが、父なる神様に祈ると何が起きるのでしょうか。御心に適った祈りをすると、どのような恵みがあるのでしょうか。父なる神様は、私たちの思い煩いを取り去り、心に安らぎと平安を与えてくださいます。父なる神様は、私たちが本当に必要としている物を与えてくださいます。たとえば、聖霊なる神様の実である、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。この祈りのプロセスを通して、私たちを新しく造り変えてくださいます。

祈りは、正しい動機でされなければなりません。教会内で争い事があるときは、どんな時でしょうか。ヤコブ4章1節‐3節に説明されています。教会メンバーが、自分の楽しみや自分の正義のために祈り求めている時です。神様から、必要なものは与えられません。

3.失望せずに常に祈るべき

異邦人のように同じ言葉を繰り返す祈りはNGですが、失望せずに常に祈るべきであると、主イエス様は教えています。ルカ18章1節-8節を読んでみましょう。神を畏れず人を人とも思わないような裁判官に、あるやもめが「相手を裁いて下さい」と訴え続けたというたとえ話から、主イエス様は祈り続けることの重要さを説いています。

不正な裁判官でさえ、訴える者には応えて下さるのだから、天の神様はなおさらではないかと主イエス様は言っているのです。憐れみ深い神様は、信じる者たちの訴えに速やかに応えて下さるのです。何と慈悲に溢れた神様でしょうか。しかし、このたとえ話は、私たちが祈れば、何でもかなえられるとは教えていません。

むしろ、祈り続けることの重要さが説かれているのです。信仰は、神様とクリスチャンを結ぶ懸け橋ですが、祈りはその橋を行き来する車のようなものです。橋があっても、行き来する交通量がなければ橋は何の役にも立ちません。信仰と祈りの関係もこれと似ています。

クリスチャンは、常に父なる神様に目を向けて主イエス様の名によって、祈り続けるように命じられています(1テサロニケ5章17節)。この祈りがなければ、神様との関係に発展はあり得ません。神様ともっと密接な関係をもちたければ、祈りは必要不可欠です。

祈りが応えられていないと感じる時

しかし、この様に祈り続けていても、「祈りが応えられていない」と感じる時が、クリスチャン人生には必ず来ます。「神の御心のままにしてください」と祈る時がくるのです。

主イエス様は、十字架にかけられる前にゲッセマネで「御心でしたら、この杯をわたしから過ぎ去らさせてください」と3度祈りましたが、最後に「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈りました。また、使徒パウロは、サタンによって与えられたトゲを取り去ってくださるように、主に3度祈りました。すると、主は「わたしの恵みはあなたに十分である」と答えられました。

このようにいつ何時の祈りでもは、「御心のままに」という祈りを忘れてはいけません。「神様はわたしたちが必要なものをご存じである」という原則を、常に心に刻んでおきましょう。

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