コンテンツへスキップ 投稿日:2022年6月1日/更新日:2023年5月5日

マタイ5章21-26節。怒りの罪

愚か者!と人をバカにする罪や怒りの罪は、殺人と同じって本当ですか。マタイ5章21-26節を読んでみましょう。人に怒り人をバカにする人は、火の地獄に投げ込まれると、主イエス様は言っています。主イエス様の真意は何でしょうか。

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。

マタイ5章21-26節 聖書協会

この聖句を文字通り読めば、腹をたて人をバカ者、愚か者と呼んだりすることは、殺人の罪に等しいと解釈できます。とはいっても人間の目からすれば、実際の殺人の方が罪は重いと思うでしょう。本題に入る前に、「愚か者」について聖書の教えを考えてみます。

聖書の教え 賢い人と愚かな人を見分ける

この世には賢い人と愚かな人がいると、主イエス様は言っています(マタイ25章1節―13節)。また箴言24章20節-34節は、愚かな人や怠惰な人の愚かさから反面教師として学びなさいと教えています。 同じ箴言2章20節-34節は、賢い人から学び、その道を歩みなさいと戒められています。「人の振り見て我が振り直せ」の諺どおり、私たちは他の人間の愚かさから学び賢い判断をするように教えられています。

このような神の知恵は、世の中にいるいろいろな悪人、愚かな人から身を守るために必要です。ある人は、自分の目的の為に、人を利用して、すべてあなたが悪いと思わせるでしょう。別の人は誠実に善意で接します。しかし、見かけでは分かりません。だから、神の知恵が必要なのです。私たちは、人を裁かずに人に腹をたてることなく、人を愚か者、バカ者と呼んだりはしません。この世には人間の罪ゆえに愚かな人がいることを認識しても、その人にレッテルをはるようなまねはしてはいけません。むしろ感謝をもって、そのような人たちから反面教師として学ぶことができるのです。では主イエス様は、マタイ5章21節-26節で何を戒めているのでしょうか。

愚か者!と人をバカにする罪には、人の心を殺す力がある

ヤコブ 3章2節-10節は言葉の力について説明しています。私たちは、言葉で神を賛美し神を言葉でほめたたえます。同じ口から出てくる言葉で人を呪ってしまうことがあります。だから、「舌は火であり不義の世界」になりうるのです。

私たちの言葉は、人を傷つける強力な武器になります。人の心を破壊してしまう殺傷能力があるのです。この罪の重さも知らずにある人は、「善意で言った言葉なんだけど…」と言うかもしれません。ですが、善意かどうかは問題ではありません。怒りの言葉も皮肉を込めた鋭い言葉も心に刺さります。きつい言葉です。ある人の心には、その言葉が突き刺さったままになっているのです。

私たちの言葉は裁かれる

このような言葉を言っている人は、殺人と同じ罪を犯しています。地獄の火に投げ込まれるべき罪を犯しているのです。確かに人間の目からは、怒りは殺人の罪よりも軽い罪です。だけれども神の目には同じです。私たちの内で、人に対して怒ったことが一度もない人などいるのでしょうか。人をバカにした態度をとったことがない人などいるのでしょうか。クリスチャンの中にいたとしても、ほんの一握りの人たちです。ほとんどの人たちは、言葉によって罪を犯しているのです。

次にマタイ12章33節‐36節を読んでみましょう。神によって裁かれる言葉とは、独り言ではありません。対人関係の言葉が裁かれるのです。人を見下す言葉、人を裁く言葉、人をバカにする言葉が裁かれます。神の裁きの日に、このような言葉が神の御前に出され、神の審判が下されます。

心の中で人を裁いているがゆえに、口から罪深い言葉が出てきます。そのような気持ちを隠していても、何かの拍子でどこかで出て来てしまいます。ではどうすればいいのでしょうか。心からの悔い改めが必要です。マタイ5章3節-10節に書かれている戒めによって、原点回帰が求められます。心の貧しい人、憐れみ深い人、心の清い人になり、言葉で罪を犯さないように心がけましょう。

マタイ5章21節-26節,怒りの罪

主イエス様は、神を礼拝する前に他の人と和解しなさいと教えています。他の人と仲が悪くなっている状態で、和解はもっとも難しいことでしょう。まず人に謝罪するのもイヤと感じます。面倒くさいと思ってしまうでしょう。あるいは、多くの人は、時間が解決してくれるはずと言い訳をして、相手の人と和解しようと思いません。これはクリスチャンにとってNGです。

私たちの横の関係はとっても大切

「ごめんなさい。私が悪かった。間違っていた」と率直に認める人になりましょう。自分の非を素直に認めましょう。実際、そのような勇気を持った人は、逆に他の人から尊敬の眼差しで見られます。私の友人の言い分を聞いてみましょう。「僕も謝るんだから、あの人にも謝って欲しい」と彼は私に言いました。実際、これでは自分が犯した罪に対する謝罪にはなっていません。 この言い分は、本当に自分の悪を認めていないことになります。主イエス様が言う「最後の1コンドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」とは、本当の謝罪はそれだけの覚悟が必要であると教えているのではないでしょうか。

1ヨハネ4章20節-21節を読んでみましょう。神を愛していると言いながら、他の人と仲たがいしているクリスチャンがいれば、その方は偽クリスチャンです。神への愛と隣人愛は、お金のお札のように表裏一体の関係です。どちらかが偽であれば、全体が偽物です。片方がどんなに立派でも、もう一方が偽であれば偽物なのです。クリスチャンも同じです。

クリスチャンの方なら誰も、主イエス様に腹をたてたり、「バカ者、愚か者」と言ったりしません。ところが、いぜ対人関係だと、これは多くのクリスチャンがやってしまう罪です。

神の裁きは2つある。生きている間と死んだ後

私たちは、神の憐れみによって生きている間に裁かれる時があります。プチ裁きともいえます。試練が与えられる時です。 そんな試練を通して、私たちは自分の過ちに気づき悔い改めることができます。これも神の恵みです。

だけれども、悔い改めなかったらどうでしょうか。死んでから裁かれます。どちらがいいでしょうか。死んでからでも悔い改めができると考える人もいますが、それはあくまでも人間の想像に基づく解釈です。そんな解釈を当てにして、悔い改めるチャンスを見逃す必要はありません。

これから私たちが霊的に成長していくために、対人関係で新しい出発がひつようです。本当に主に喜ばれる人間になるために、主によって造り変えられるために、他のクリスチャンを心から敬い愛しましょう。

神の裁きと神の憐れみ

神の裁きと神の憐れみは、聖書全体に書かれているテーマです。車の両輪のようです。片方が外れては、バランスがとれません。 マタイ5章-7章では、この2つのテーマが所々に見受けられます。この学びを通して、読者のミサ生の考え方が変わるかも知れません。

主イエス様は、「私たちがパリサイ人たちの義にまさらなければ、天の御国に入ることはできません」と言いました。私たちは、5月~9月までマタイ5章-7章を学びます。私たちの人間性が試されるときです。形だけではなく、儀式の行いだけでなく、心から神様を礼拝できるように学びましょう。自分の信仰を検証し、自己吟味してみましょう。自分が本当に天の御国に入れるのか、自己吟味しましょう。

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