コンテンツへスキップ 投稿日:2022年7月13日/更新日:2023年6月11日

マタイ6章1-4節。見てもらおうとして

マタイ6章1-4節の解説。主イエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行しないように注意しなさい」と戒めています。どのような背景があり、このようなことを教えたのでしょうか。当時のユダヤ教律法学者たちの宗教的慣習を知る必要があります。

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

マタイ6章1-4節 聖書協会

日本人ほど、人の目を気にする民族はいないかもしれません。ほとんどの町内会のお祭りには、必ず立て看板が建てられ、誰がいくら寄付したかが名前を出して示されます。金額が高い人の名前ほど、上位に掲示されます。人の誉れを求めている人たちは、このような寄付をするのではないでしょうか。

ユダヤ教教師たちの慣習

ユダヤ人律法学者たちも、日本人と非常に似通った文化風習を持っていました。主イエス様が彼らの偽善的な行いを指摘しています。マタイ23・1‐6節

ユダヤ教律法学者たちは、他の人に重荷を押し付け、人に褒められ尊ばれる奉仕だけをしていました。たとえ苦労を伴う善行をしても、人に見られるためにやっていたのです。主イエス様は、彼らを真似てはいけないと言っています。

人間の欲求の一つとして、「個人として認められ褒められたい」という承認欲求があります。私が聖書も何も知らない頃の話です。コックをやって時代、厳しいシェフの下で働いていました。彼は非常にきれい好きで、私たちが調理場の掃除をしていると機嫌がよくなる人でした。私がそこで覚えたことがあります。自分の調理場の掃除は、シェフに見られるようにすること。時間を計算して、彼が見るタイミングで掃除をするのです。すると、シェフに褒められるのです。非常にセコイ、ズル賢い狡猾な行いです。しかしこのような行いは、まさに偽善者がやることです。

自分の行いを正当化して、神の御言葉をないがしろにする人

今はインターネットの時代です。自分の善行をいろんな方法で宣伝できます。しかしそんな自己宣伝で、神の御言葉をないがしろにしていることはないでしょうか。時々、次のような投稿をインターネット上で目にします。

ある人が災害にあって困っている。親切なクリスチャンが、それを見かねてその方に必要な物を分け与える。災害救助がなされている事実を伝えるために、ついでに自分がその人を助けている時の写真を、ネット上にアップする。その記事を読む人たちは、高評価を与えてくれる。このようなプロセスで、自己宣伝がされています。

「自分の善行の写真をアップするのは当然だ」とほとんどの人が考えるでしょう。しかし、「ちょっと待てよ」と考えてみましょう。そのように人の誉れを求めることが、神様の御心でしょうか。

マタイ6章1節-4節

新約聖書が書かれているギリシャ語で、偽善はupokrinomaiです。この言葉の元々の意味は、「芝居を演じる」です。古代ローマ帝国の芝居は、役者が仮面をかぶって行われていました。その語源から偽善者という言葉が生まれました。

偽善者は、人に見られることを意識して、すべて計算ずくで演じているのに過ぎません。善行の裏にある目的には、人に見られるという動機が隠されているのです。

善い行いは神様だけが知っていれば良し

「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはいけない」と主イエス様は戒めています。神様以外、誰も自分の善行を知る必要はないのです。では善行は、どのような動機で行われるべきでしょうか。

人の誉れと神の誉れ、どちらを私たちは選ぶでしょうか。この世で認められる事と神様によって認められる事、どちらを取りますか。人の誉れは、自動販売機のようにお金を払えばすぐに与えられるような物でしょう。目に見える形でご褒美が与えられるのは、嬉しいものです。

目に見えない神様の誉れは、目に見えません。霊的な祝福です。天に宝を積む祝福です。その祝福を求めて信仰によって、善行を行うべきでしょう。隠れている神様は、私たちの隠れた行いをきちんと見ています。

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神様の義を求める心

第二の動機は、神様の義を求める心です。人前で善行を見せる人は、自分がどれほど素晴らしい人間か、どれほど誠実で正しい人間かを知ってもらいたいのです。これは自分自身の義を求めているのに過ぎません。神様の義を求めていれば、「神様はどのような事を喜ばれるのか」を考えます。神様の御心を求めます。エペソ5章16-17節

21世紀になっても悪い時代は続いています。ゆえに、神様の御心は何かを知るために、神様の義を日々求めるように戒められているのです。善行をしたとしても、自分を高めるためだったら、何の徳があるでしょうか。神様の祝福は、そのような人に訪れません。

主イエス様は、「憐れみ深い者は幸いです」と言っています。この憐れみの心は、いったいどこから来るのでしょうか。神様の憐れみです。善行とは、神様の憐れみを分かち合う事です。ですから、私たち人間が、神様の憐れみを分かち合う誉れを受ける訳にはいきません。すべてにおいて、神様が褒められるべきなのです。

すべての支配、知恵、力は、天の神様にあります。私たち人間は、この世で生かされているに過ぎません。特にクリスチャンは、この世で神様のミッションを行うために存在しているのです。そのミッションとは、「人間が神様を信じ褒めたたえるように」、善い行いをすることなのです。すべての栄光が神様に帰すように、クリスチャンは生きるように命じられています。

結論 隠れている神様

隠れいている神様は、私たちの隠れた行いを見ています。天の神様は、一人一人のクリスチャンと個別の関係を持っています。一人一人の人格、性格、心をご存知です。私たちの心の奥底にある動機も知っています。このテーマは、マタイ6章1節ー18節の重要なテーマです。6章5節以降の祈りと断食にも、当てはまる原則です。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神様を愛しましょう。神様に喜ばれる善行をして、主なる神様が褒めたえられれますに、祈りましょう。

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