コンテンツへスキップ 投稿日:2023年1月19日/更新日:2023年5月4日

ローマ2章1‐5節。他の人を裁く罪

ローマ人への手紙2章1‐5節。裁きは神様の特権事項ですが、私たち人間は他の人を裁いてしまいます。裁きの罪に対して、パウロは警告しています。私たち人間が、人をすぐに裁いてしまいますが、憐れみ深い神様は人を裁かず待っています。

ローマ2章1‐5節 裁きの罪に対する警告

ローマ2章を読んだ後、多くの人たちは、頭を抱えてしまいます。何を言っているのかわからないと感じるでしょう。しかし、その背景を知れば簡単に理解できます。

1世紀のユダヤ人たちは、ユダヤ人ではない人たち、つまり異邦人たちを見下していました。罪深い人たちとして、裁いていたのです。神様の律法を受けたユダヤ人たちは、自分たちが特別だと考えていました。道徳感のある聖なる民と自認していたのです。そんなユダヤ人たちに対して、ローマ2章パウロは警告しているのです。

もう一つこの手紙を難しくしている要素があります。1世紀の哲学者たちが弟子たちに書き送った問答形式で、パウロはローマの手紙を書いているため、非常に理屈っぽい表現が多いのです。

私たち人間が犯してしまう裁きの罪

人は誰でも自分が正しくて、他の人は間違っていると無意識に思ってしまいます。人を裁いてしまうのは、私たちが無意識にやってしまうことです。相手の人と成りを判断する時に、無意識にやってしまうのです。この人は、気性の激しい人、短気な人、内気な人、だらしない人、嫌味を言う人とか思う時に、無意識に人を裁いてしまいます。

数年ごとに、聞く裁きの言葉があります。この言葉を聞くと、びっくりします。クリスチャンの口から、「あの人の信仰は弱い」と聞く時です。他のクリスチャンを指さして、「あの人の信仰は弱い」と言っているのを聞きます。「じゃー自分はどうなんですか」と問いかけたくなります。

私たちが人を裁く時、指はいつも自分の方にも向いています。その裁きは、必ず自分に跳ね返ってきます。人を裁く人は、その同じ裁き方で、他の人によって、神様によって裁かれていると主イエス様は諭しています。

人を裁く罪の恐ろしさ

実際、私たちが他の人の人格や態度や行動について、何かクレームをつける時は、実際に自分も同じようなことをやっているのです。似たようなことをしています。自分のことは棚に上げておいて、人のことにクレームをつけるーーーこれ位、恐ろしい罪はないかもしれません。

素晴らしいことをやって、人に親切にして、人に感謝されても、その本人が他の人を裁いていたら、その人はどんなクリスチャンだろうか。

私は、その人の裁きの態度にがっかりしますが、がっかりしないこともあります。それは、その人も、私と同じように、罪人に過ぎないことに気づかされることです。どんな周りの人から尊敬されていても、内面は私と変わらない罪人に過ぎないのです。

裁きは神様の特権事項

私たちが、裁きについて決して忘れてはいけないことが、一つあります。それは、裁きは神様の特権事項であるということです。

私たちに人を裁く権利、権威など微塵もありません。なぜなら、私たちも同じ間違い、同じ過ち、同じ罪を犯しているからです。裁きは、神様の仕事です。神様の領域に、私たちが入る権利も権威もありません。裁きは、神様にお任せするべきなのです。

私たち人間を裁く権威をもっているのに、神様は私たちを裁かず待っているのです。この不思議について考えてみましょう。

最後の裁きの時まで神様は待っている

ヨハネ8章1節—11節を読んでみましょう。ユダヤ人教師たちは、姦淫で捕らえられた女性を裁き、主イエス様をも裁いていました。ところが主イエス様は、この女性さえにも憐れみの言葉をかけました。この罪深い女性を裁 くこともせず、罪に定めることもしませんでした。

神様は、私たちを罪に定めることはしません。最後の裁きまで、神様は待っているのです。私たちが、この地で生きている限り、神様は私たちが悔い改めるのを待っています。

だから、私たちも人を裁いたりはできないのです。私たちは、人の人格を決めつけたりもできません。なぜなら、人は神様によって、変えられるチャンスをもらっているからです。

憐れみ深い神様は、私たちに期待して待っている

最後に、主イエス様の招きを聞いてみましょう。キリスト者とは、主イエス様によって変えられていく人です。現在進行形で変えられていく、成長していきます。主イエス様の教えに耳を傾け、その教えを実践していくのです。

マタイ7章24節―27節を読んでみましょう。主イエス様は、山の上の説教(マタイ5-7章)の最後の結論として、神様の裁きと警告を与えています。

主イエス様の教えを聞いて実践するのが、私たちキリスト者の使命であり、人生の歩みです。しかし、もし主イエス様の教えを聞くだけで終わってしまったら、どんな人生を歩むのでしょうか。どんなクリスチャンになるのでしょうか。そのようなキリスト者は、信仰を失ってしまい、最後には滅びてしまいます。これが神様の裁きの言葉です。

そんな滅びの人生を歩まないように、主イエス様は、今こうして警告しています。戒めています。憐れみ深い神様は、私たちを裁かず待っておられます。悔い改めを待っておられます。だから、私たちも人を裁く事はできないのです。

結論

いかがでしたか。神様の憐れみにすがって、今日も一歩一歩前進しましょう。人を裁かない態度、心をもって過ごしましょう。皆様の上に神様の豊かな恵みが宿りますように。

ローマの手紙からのメッセージ

ローマ人への手紙の歴史的文化的背景古代ローマ教会の成り立ち信仰によって互いに励まし合う神様は人を裁かず待っている神様の裁きの基準罪深い人間にも希望がある新しい契約の要信仰義認の法則キリストによって成長する狂った世の中での希望死んで新しく生まれる意味クリスチャンの違った意見ローマ人への手紙の著者 使徒パウロの信仰と人格

「ローマ2章1‐5節。他の人を裁く罪」への2件のフィードバック

  1. アーメン。自分自身も日々目にある丸太から塵が取り除かれ、澄んだ目で主に従えますように。

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