コンテンツへスキップ 投稿日:2023年1月28日/更新日:2023年5月12日

ローマ2章6-16節。神様の裁きの基準

神様の裁きの基準

神様の裁きの基準は何でしょうか。神様は人を裁かず、最後の裁きのときまで待っています。人の悔い改めを待っておられます。特に、神様の裁きはフェアーであり、公平であることに注目してみましょう。ローマ2章6—16節を読んでみます。

神はおのおのの行いに従ってお報いになります。 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

ローマ2章6—16節 聖書協会

この聖句は、少し難しく聞こえるかもしれません。しかし、その背景を知れば理解できます。ユダヤ人とギリシャ人という表現は、1世紀の世界観を表しています。ギリシャ人は異邦人の代表です。1世紀のローマ帝国では、大きく分けてすべての人種を2種類に分けていたのです。それはユダ人とギリシャ人です。この表現で、すべての人間、全人類を指しています。

この聖句を2つの個所、2章6-11節、12―16節に分けて考えてみます。

原則1 神様は人を分け隔てしない

天の神様は人を分け隔てすることはありません。一方、私たち人間は、人の生まれや学歴によって、人をより分けたりします。その生まれ学歴で、人にレッテルをはったりします。つまり、先週も話しましたが、人を裁いてしまいます。

しかし、天の神様は、善を行う人、神様の御国と義を求める人、人を自分のように愛する人には、神様の恵みを与えます。十分すぎるほど、恵みと憐れみが、そのような人には注がれます。

ところが、悪を行う人、神様の真理を捨てて自分勝手に生きる人には、神様の怒りと裁きが下されるのです。そこに神様は分け隔てはしません。人種も国籍も、学歴も社会的な地位も関係ありません。すべての人間に公平な裁きを与えます。

私たち人間は、人を分け隔てする

ところが、私たち人間は、人を分け隔てするのです。人によって態度を変えてしまう罪深い人間なのです。ヤコブ2章1‐4節を読んでみましょう。

私たち人間は人を見て話し方を変えたりします。態度も変えたりします。はっきり目に見える形で、そのような行動はとらなくても、私たちが心にそのような気持ちをもっていたらどうでしょうか。そのようなクリスチャンは、本当のキリスト者といえるでしょうか。

私たちが信じる神様は、私たち人間のようではありません。100%人を分け隔てすることはないのです。私たちは、分け隔てしない神様の恵みに与ることも出来ます。逆に、私たちが人を分け隔てしたら、神様の裁きを受けなければならないのです。

神様の恵みと裁きは、公平にすべての人に与えられます。この基準に生まれや学歴、社会的な地位は関係ありません。

たとえば、教会で尊敬されている人でも、それは人間の基準に過ぎないかもしれません。社会的に地位が高い教会の指導者と一般のキリスト者に、神様の御前では違いはありません。

神様は、私たちの行いを見ている、私たちの信仰を見ている、私たちの心を見ているのです。人間が人を測るような、社会的な地位ではありません。

原則2 それぞれの置かれた立場で、神様は人間を裁く

もう一歩突っ込んで考えてみます。神様の裁きの基準が、もう一つあります。2章6—11節では、神様は人を分け隔てなく、人を祝福し、または裁くという原則をお話しました。では、ローマ2章‐12‐16節はどうでしょうか。この箇所も神様の裁きの原則を説明しています。神様は、それぞれの置かれた立場に応じて人間を裁くのです

律法を受けたユダヤ人と律法を受けていない異邦人は、どのように裁かれるのでしょうか。律法を受けたユダヤ人は、特別扱いされるのでしょうか。律法を受けなかった異邦人たちは、自動的に地獄に行くのでしょうか。そんなことはありません。

神様は、それぞれの置かれた立場に応じて、人間を裁くと言いましたが、その例として旧約聖書の預言書アモス1章—2章を読んでみましょう。長いので、全部は読みません。

アモス1章—2章の見出しを見てください。1章では、イスラエルの近隣諸国が裁かれています。

1章3節はダマスコ、6節はガザ、9節はティルス、11節はエドム、13節はアンモン。さらに2章を読んでみます。2章1節ではモアブ。これらの人々は、神様の律法は与えられませんでした。

今度は、律法が与えられたイスラエル、ユダが裁かれます。2章4節ではユダが裁かれています。6節ではイスラエルが裁かれています。ユダもイスラエルも、神様の律法を受けた者として、裁かれたのです。そこに特別扱いはありません。

このように、神様は人間を分け隔てすることなく、その立場に置かれた状況によって、公平に人間を裁くのです。

最後の裁きは、主イエス様によって行われる

最後の裁きは、主イエス様によって行われます。すべての人間が裁かれる時です。すべての人間が、神様の御前にひれ伏す時です。主イエス様を信じなかった人も、信じた人も、世界中から集められます。すべての国、すべての民族から集められます。

その時、人間の隠れた事柄が、すべて明らかにされるのです。私たちが心の奥底に秘密にしておいたことも、すべてが神様の御前で明らかにされます。

例外なく、神様は私たち人間を分け隔てなく、裁くのです。その裁きの日に、主イエス様への信仰によって、神様の御前でひれ伏すことができますように、日々精進しましょう。

ローマの手紙からのメッセージ

ローマ人への手紙の歴史的文化的背景古代ローマ教会の成り立ち信仰によって互いに励まし合う神様は人を裁かず待っている神様の裁きの基準罪深い人間にも希望がある新しい契約の要信仰義認の法則キリストによって成長する狂った世の中での希望死んで新しく生まれる意味クリスチャンの違った意見ローマ人への手紙の著者 使徒パウロの信仰と人格

「ローマ2章6-16節。神様の裁きの基準」への1件のフィードバック

  1. アーメン。主イエスの救いに預かれた恵みに心から感謝します。人間にとって神との和解と御国の保証以上のことはありません。今日も主に倣いて励みます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です